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メタルフィッシュ
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1972年生まれ
B型 みずがめ座
神戸出身、大阪在住の営業マン
魚介類は大の苦手
海外全般が好きで渡航歴有り
釣りをモチーフにしたシルバー
アクセサリーのデザインも行っている
現在、「オンスタックルデザイン」
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2011年01月18日

阪神大震災から16年 <第二回目>

昨日に引き続き、私の阪神大震災のおりに体験しました被災記録を記します。

文字ばかりで少し長くなりますが、ご興味がございましたら「 続きを読む 」からご一読下さい。



内容に関しては一切の脚色はなく、私自身が体験した事実のみに基づいています。
第一回目のお話しはこちら


<以下 つづきです>


全壊した建物からなんとか這い出し、近くで建物に閉じ込められた方を救出したあと、

なぜか分からないが気が付くと、歩いて30分は掛かる最寄りの阪急岡本駅へと足は向いていた。


大きな道路側に出ると、まだ瓦礫は少なく普通に歩くことが出来た。



そして途中のJR線の踏み切りに差し掛かったとき、警察官らしき人物がいたので

話しかけた。




” 電車動きますかね? ”




動くはずもないのだが、わけのわからない状況でわけのわからないことを聞いていた。



勿論、電車など動くわけもなく再びもとの場所に戻った。



人が集まるところに行けば、何か情報がつかめるかもしてないと思い、近くの公園に向かった。


公園に着くと、なんと比較的近くに住んでいた大学の友人親子と出会った。



” たすかった! ”



ひと安心した。


彼は私に自宅からスニーカーを持ってきてくれた。

これで歩くのが楽になる。



そして一旦、ここで彼ら親子とは別れた。



しかし公園には意外に人はいなかったため、今度は近くの公民館に向かった。


歩いている途中で、あちこちに置時計が転がっているのが見えたが、どの時計も


5時46分


差したまま止まっていた





ようやく公民館に着くと、今度は大勢の人で溢れてかえっていた。

とにかく寒いので室内に入ろうとしたものの、人で一杯のため入れず、

中に入っているのは、老人や子供、女性が優先のようだった。



ここはダメだと思い、別の避難場所を探そうと再び界隈をさまよった。



途中で甲南市場という市場があり、その入り口角付近の家屋が火事で燃えていた


恐らく古い建物なのであっという間に燃え広がるだろうが、消防車など

来る様子などない。



燃えた家の持ち主には気の毒だが、この火事は明るくて暖かいので、

暖を取るには最適であった



少し暖まってから再び途方もなく歩きだしたが、安心して非難できる場所は

無かった。



途中、道端で公衆電話があちこちにあったが、みな人が並んでいた。



電気も通っていないのに使えるのかと思ったが、どうやら電気が無くとも

アナログ回線で繋がるようであった。



しかし私は所持金が無いため、実家や友人、当時の恋人にも連絡することができない。



仕方が無く、再び先ほどの公民館に戻った。






公民館に着くと異様なニオイがした。


それは公衆便所の水が流れないためであった。



とりあえずあまりの寒さに耐え切れず、公民館に入り、玄関の正面にある

僅かにあいていた階段にようやく腰を下ろした。


階段は大理石でできているため凍えそうになったが、もうここしか落ち着くところはない。



寒さと体力にも限界を感じ、大理石の階段でじっと我慢して耐えた。






座ってからどれぐらいたったのだろうか、突然、おばあさんが話しかけてくれ、



” これ、良かったら使って。 それとパンあるけど食べる? ”



と言って私に小銭(恐らく200~300円くらいだったと思う)とパンを差し出してくれた。

まるで神様か天使のように思えた。



有り難くパンを頂き小銭をポケットに入れたものの、少し頭がもうろうとしていたので、

そのときの記憶があまりない。





そしていつの間にかその階段で縮こまって座ったまま寝てしまっていた。






” こっち、こっち! はやく! ”





何やら玄関口が騒がしくなっていた。

どうやらけが人が順次公民館の中に運ばれているようだ。




” 足折れてる、早く! 足折れてるで! ”





という声が聞こえたが、そのあと、




” そんなんは後や! ”




という声が続いた。


次々と運ばれてくる負傷者を見ていると、どうやら、心臓や内臓に近い重症の負傷者が

優先
のようで、手足の骨が折れたぐらいのものは後回しにされているようだった




” ひどいな・・・ 血だらけやのに・・・

  だけどこの状況で仕方がないんやな・・・ ”





それらを見ながら、何度も何度も寝ては騒ぎで目覚めを繰り返した。




夜明けまでに最後に見た覚えがあるのが、重症を負った子供が運ばれてきたことだ。





座ったまま寝ており、夜が明けたころに目覚めると、階段前に子供たちが大勢円になって

座っていた






” どうしたんかな? ”





と様子を見ていると、どうやら最後に見た重傷の子供が亡くなったようで、友達がまわりを

囲んで泣いていた。





” かわいそうやな・・・ あかんかったんか・・・ ”





思わずかわいそうで、もらい泣きしそうになった。


ここにいつまでもいるわけにはいかないと腰を上げると、

なんと右足が寒さからか麻痺して感覚が無くなっていた




” まずいな・・・ 歩かれへん・・・ ”




それでもなんとか右足を引きずって公民館の外にでると、ラジオを持っている方がおり、

何人かの方が聞き入っていた。



その情報では、どうやら近くの臨海沿いにある大型ガスタンクが破裂するかもしれないから

周囲4~5kmは爆発すると吹っ飛ぶので非難するように
というような内容であった。






” あかん、ここは十分範囲に入っているはずや、

  すぐそばにタンク見えてる ”







その情報が知れ渡っていたのか、周りの方々もどうやら移動しはじめているようだった。

とにかく山側に離れなければいけないと思い、山へ向かう方々について足を引きずりながら

北へ北へと向かった。




しかし北へ向かったところで何があるわけでもなく、人すら誰もいなくなったので

結局、公民館の方へ戻った。




途中で公衆電話を見つけたが、昨日のように誰も並んでいない。





” ん? 誰も電話してへんな? なんでやろ? ”





昨日、公民館で見知らぬ老人に頂いた小銭を持って電話しようとした・・・


が、なんと小銭が電話機に入らない!?



それは、みんなが電話をし過ぎて、電話機の小銭収納スペースが無くなって

それ以上入らずに電話ができなかった。



結局、どの電話も小銭が入らないため電話はできず





公民館の近くで再び友人に会うが、直ぐに近くで




” 老人が全壊した建物に埋まっているから

 近くの男は手を貸して欲しい! ”





という叫び声が聞こえ、友人とその救助にあたり、何とか老人を救出した




今回の地震で殆どの建物は1階が崩れて落ちてしまって2階以上が地面にペタッと

ついている状況であったが、老人は普段、1階で寝ていることが多いために老人の

負傷者が多くなってしまう
のだ。




その後、友人親子になんとか助けてもらおうと思っていたが、

友人親子は富田林の親御さんの実家に自転車で今から向かうとのことで

やむなく別れることになり、再び独り取り残された




気が付くと、なんとなく空腹感を覚えた。

お金は少し持っているが、食べ物を売っている店など無い。

こういう事態になると、お金など何の価値もなくなるのが良く分かった




あちこち小学校などを回っていると、自衛隊が食べ物を配給しているという

うわさを聞き、早速行ってみると支給待ちの行列ができていた。



かなり長い時間、並んで待って頂いたのは、小さなカンパン3つのパックだった。

無いよりは良いが、水分もないので食べたものののどの渇きを覚えた



今度は自衛隊の給水車が来るというので、並んで待った。



そしてようやく自分の番が来てもらおうとすると、






” 入れ物を渡して下さい ”




と言われた。





” え? そんなもの無い・・・ ”





と言うと、





” 入れ物が無いとあげられません ”
 




それはそうだが、何とか助けてくれないのかと言ったが、何もしてくれないので

水は諦めた



困っていると、やはり善意のある方はいるようで、ジュースを下さった方がいた。





” 本当に有難うございます。 ”









その後、被災地内の小学校などの人が多い避難場所ををあちらこちらと当ても無く

めぐりわたり、いろいろな方に会ったり、いろいろな出来事があったりした。




その2日後に、実家から私を探しにきた父親に偶然、

某小学校のグランドで出くわし、なんとか実家に戻ることができた。


その後は実家で数ヶ月間過ごすこととなった。







実家に戻っても度合いは軽かったが、同じ神戸なので被災地は被災地であり、

いろいろな問題やそれにまつわるエピソードがありますが、

震災の話はここで終わりにします。




最後までご覧頂きました皆様、有難うございました。




犠牲者の多くの皆様、ご冥福をお祈りし、

二度とこのような災害が無いよう、切に願います。





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Posted by メタルフィッシュ at 18:08│Comments(13)阪神大震災
この記事へのコメント
こんばんわ、はじめまして

いつもはいち読者ですが1.17のことを読み「あの時」のことが思い出され
コメントさしてもらいます。

住まいは和泉市ですが
朝方の突然の揺れ!ダンプが突っ込んだのと勘違いするくらいの衝撃、
地震とわかるとお腹の子が心配で、ただ嫁のうえにかぶさるのが精一杯でした。

ただ、住宅の被害はひびが入った程度で済んだんで、あわててテレビをつけるが、情報が・・・電話もつながったのでそのまま出勤。

ただ、お昼のニュースで驚愕。隣の県で地獄の様な映像。

大阪との温度差をまざまざと感じた瞬間でした。

あれから16年、できることは防災グッズの確認が精一杯の自分。
それと、「あの時」を忘れないことですかね。

地震を知らない子供にもこの体験された方しかわからない話、読ませます。
Posted by 見習い at 2011年01月18日 19:16
>見習い さん

コメント有難うございます。

人間、のど下過ぎれば・・・ということは多々あります。
しかしこういった天災はいつ誰のみに降りかかるかわかりません。

私の体験を読んで頂き、同じようなことがご自分に同じような事が
起こったとき、どうすべきかということを前もって考えるきっかけに
なればと思います。

お子様に読んでいただき、少しでもお役に立てれば幸いです。

今後とも宜しくお願い致します。
Posted by メタルフィッシュメタルフィッシュ at 2011年01月19日 09:29
メタルフィッシュさん こんにちは。

状況がリアルに伝わってきました。
メタさんもひどい修羅場を 経験されたんですね。
人の家とはいえ それで暖を取るのは
その状況を体験したものでないとわからない・・・ひどい状況ですね。

一方、優しい方々の思いやり・・・心が癒されます。
・・・人ってすばらしい!

しかし、年々、報道での扱いが
小さくなっていることが気がかりです。

第一回目のお話も読ませていただきたいのですが
リンクが切れているようで・・・(自分だけの現象だったらすいません)
よろしくお願いします。
Posted by かわっ家(ち)かわっ家(ち) at 2011年01月19日 19:05
こんばんは

ドラマとか映画の世界の様で、実は本当の話


困った人に手を差し伸べるやさしい心の持ち主

心温まる感じがしました



給水車の入れ物が無いと......っていうのが
なんかしっくりこないんです
仕方ないのかもしれませんが
用意もできないのかもしれません(数がおおくて)
が、なんか方法はなかったんですかね
Posted by ガッシイ at 2011年01月19日 22:55
第一回目のお話は
同じ18日の記事だったんですね
気がつかず。すいませんでした。
Posted by かわっ家(ち)かわっ家(ち) at 2011年01月20日 00:01
>かわっ家(ち) さん


地獄に仏ではありませんが、人間の本来の暖かさを感じました。

わかっ家(ち)さんのおっしゃる通り、震災関連のニュースは
ほんとに少なくなりました。
人間は実体験しなければ本当の意味で理解できませんので
悲しいことですが、仕方がないかと思います。

しかし無防備な状態で今回のような震災に会うと、間違いなく
私と同じような目に会うと思いますので、できれば震災の映像と
ともに誰もが常備品の確認などが簡単にできる番組を1月17日に
してほしいと思います。
Posted by メタルフィッシュメタルフィッシュ at 2011年01月20日 00:59
>ガッシイ さん

釣りには関係の無い長い文章にお付き合い頂きまして
有難うございました。

給水車のことは今考えると少し腹立たしい感じがしますが、
現場での自衛隊の方は 警察官と同様、何の感情も無く
上から目線でたんたんと処理するように事を済ませていた
印象があります。

現場に車両を入れることすら大変な状況で、
恐らく自衛隊の方々も無理な命令を強いられていたのかも
しれませんし、何せ人数が多いので一人ひとりに対応している
余裕が無かったのだと理解しようと努力しています。
Posted by メタルフィッシュメタルフィッシュ at 2011年01月20日 01:33
こんばんは。
とてもリアルな内容に、あらためて考えさせられました。

当時、私は大阪府松原市で一人暮らしをしており、
朝方寝ぼけながらも、いつもの地震とは違う揺れかただと記憶しております。
私の部屋へのダメージはほとんどなかったです。
立ておき型の歯みがきが倒れたくらいでした。

その後、兄からの電話で我に帰りました。

大丈夫かっ!テレビつけてみろ!
テレビには倒れた高速道路が映し出されていました。

半年後、当時アルバイトでバイク便をしており、
仕事で神戸に荷物を運んだとき、
住所のとおりに到着したところには何もなく、
もちろん辺り一帯もなんにもなく、
なんとか探し出して荷物を届けたことを思い出しました。

声が出ませんでした。

この記事書いてくださった事に感謝します。
Posted by こんさくら at 2011年01月20日 23:35
>こんさくら さん


同じ関西でも場所によりますが、大阪は比較的ダメージが
少なかったと聞いています。
松原市は大丈夫だったんですね。

地震直後は、1~2階部分が無く、屋根が地面に付いている
状態の家があたり一面を覆っていました。
まるで空爆を受けたあとのようでした。


今後、同じように大地震が起こらないとは限りません。
被災地で何日か過ごして必要と感じたのは

・運動靴
・軍手
・ライト
・暖かい衣類・毛布
・水や食料を保管できる入れ物
・ラジオ
・メモ・筆記用具

以上は最低常備しておいた方が良いと思います。

ちなみに携帯電話は被災地では、ほぼ繋がりません。



記事に記載しようと思って記載していなかったことをここで
少し追記させて頂きます。

実は地震の数ヶ月前から、すでに微震が頻繁にありました。

メディアでも地震情報など一切出ませんでしたし、
下宿先がボロアパートなので、近くに車が通ったから揺れている
のだろうと、それほど気にしていませんでした。
震災の1ヶ月前くらいは、5秒間くらいの微震がかなり頻繁にありました
ので、さすがに少し気になりましたが、それでもメディアでは地震情報と
して出ていませんでした。

今思うとあれが前兆だったのかと思います。
Posted by メタルフィッシュメタルフィッシュ at 2011年01月21日 01:11
おはようございます。
初めて投稿させて頂きます。

震災の話、全て読ませて頂きました。

メタルフィッシュさんも震災を思い返すだけで本当に辛いだろうに、カサブタをめくる様にして赤裸々に記事にされている事に深い感銘を受けました。

私は大阪在住でしたので被災者ではありませんが、高校が神戸だった為、神戸にたくさんの友達がいました。
震災の後、自転車で西宮~須磨まで各友達の家を訪ねたところ、全壊・・・全焼・・・半壊・・・と悲惨な状況で、誰一人会う事が出来ませんでした。
でも後に、友達に死者が出なかった事が分かり安心したのですが、あの震災後の悲惨な現場は今でも忘れられません・・・。

今回のメタルフィッシュさんの記事に、矛盾してるかも知れませんが、感動しましたし、感謝しています。

メタルフィッシュさんのブログは独特なモノがあると思うので、これからもメタルフィッシュさんらしいブログを期待していますよ!(^o^)/
Posted by たけまん at 2011年01月21日 08:36
>たけまん さん

おはようございます。
初めまして、コメント有難うございます。

最後までお読み頂きまして本当に有難うございました。

震災現場のすさまじさは、恐らく実際に目で見た者でなければ
理解できないかと思います。

ですので被災されていない方、被災地を見ていない方に 震災云々と
話しても恐らく今ひとつピンとこないでしょうし、真に理解はできないか
と思いますが、実際にいつどこで起こってもおかしくないのです。

ですので私のような目に会わないよう、心と物の準備だけはしておいて
頂ければと思います。



励ましのお言葉、本当に有難うございます!

今後も尚一層、良い記事が書けるように致しますので
宜しくお願い致します。
Posted by メタルフィッシュメタルフィッシュ at 2011年01月21日 10:01
たまたま【泉南 メバリング】で検索して読ませて頂きました。

私は、大阪の泉州地域で住んでいたのでそれほど震災の影響はありませんでした。
当時は、高3で大阪ガス指定の工事会社に就職が決まっていました。


震災の影響で、卒業と共に予定より早めの3月半ばに就職しました。

入社早々、被災地に1週間泊まりで復旧作業に行きました。
震災から2ヶ月過ぎてるのに凄まじい風景が目に飛び込んできました!
テレビで見るより凄かったです。

特に、長田町の一面焼け野原(表現の仕方が適切でなく申し訳ありません)は、まだ煙もくすぶり、焼けた臭いも凄かったです。

家屋の倒壊、道路の亀裂や陥没、震災の凄さが脳裏に焼き付いています。


復旧作業でガスが出るようになると感謝されたことが心に残っています。

それから、数ヶ月に渡り復旧作業に行かせてもらいました。
その後も新築の工事などにも携わり、年を重ねるごとに街が変化していき、今では綺麗な街になってまいすね。


このような、素晴らしい日記を拝見出来たことに感謝しております。

ありがとうございました。
Posted by 板さん at 2011年02月06日 03:46
>板さん

はじめまして。コメントありがとうございます。

震災の状況はテレビなどのメディアを通して見ていても
あまり実感が湧かないと思いますが、実際にその現場を
目の当たりにすると、想像以上の酷さに絶句してしまうと思います。

>ガスが出るようになると感謝されたことが心に残っています。

板さんはその復旧に携わっておられたのですね。

実は神戸の実家に帰っても電気・ガス・水道はストップしていました。
電気は比較的早く復旧したのですが、ガスの復旧はかなり遅れ
冬にも関わらずお湯が沸かせない、しいては風呂を沸かせないため
大勢の方々が長い間、風呂を入れない状態でした。
特に女性や子供、妊婦さん、赤ちゃんがいる方は、かなり困っていたと
記憶しています。
ですのでガスの復旧は皆が待ち望んでいたのでかなり感謝された
のではないかと思います。

長田区は昔ながらの長屋が多かったため、あっという間に火がまわり
悲惨な状態になってしまいました。

しかしあの悲惨な被災地の神戸も今では本当に綺麗になりましたよね。
今でも神戸の実家に帰るとそう感じます。

最後までお読み頂きましてありがとうございました。
今後とも宜しくお願い致します。
Posted by メタルフィッシュメタルフィッシュ at 2011年02月06日 12:12
 
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阪神大震災から16年 <第二回目>
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