第一回目のお話しはこちら
<以下 つづきです>
全壊した建物からなんとか這い出し、近くで建物に閉じ込められた方を救出したあと、
なぜか分からないが気が付くと、歩いて30分は掛かる最寄りの
阪急岡本駅へと足は向いていた。
大きな道路側に出ると、まだ瓦礫は少なく普通に歩くことが出来た。
そして途中のJR線の踏み切りに差し掛かったとき、警察官らしき人物がいたので
話しかけた。
” 電車動きますかね? ”
動くはずもないのだが、わけのわからない状況でわけのわからないことを聞いていた。
勿論、電車など動くわけもなく再びもとの場所に戻った。
人が集まるところに行けば、何か情報がつかめるかもしてないと思い、
近くの公園に向かった。
公園に着くと、なんと比較的近くに住んでいた
大学の友人親子と出会った。
” たすかった! ”
ひと安心した。
彼は私に自宅から
スニーカーを持ってきてくれた。
これで歩くのが楽になる。
そして一旦、ここで彼ら親子とは別れた。
しかし公園には意外に人はいなかったため、今度は近くの
公民館に向かった。
歩いている途中で、あちこちに
置時計が転がっているのが見えたが、どの時計も
5時46分
を
差したまま止まっていた。
ようやく公民館に着くと、今度は大勢の人で溢れてかえっていた。
とにかく寒いので室内に入ろうとしたものの、人で一杯のため入れず、
中に入っているのは、老人や子供、女性が優先のようだった。
ここはダメだと思い、別の避難場所を探そうと再び界隈をさまよった。
途中で
甲南市場という市場があり、その入り口角付近の家屋が
火事で燃えていた。
恐らく古い建物なのであっという間に燃え広がるだろうが、消防車など
来る様子などない。
燃えた家の持ち主には気の毒だが、この火事は
明るくて暖かいので、
暖を取るには最適であった。
少し暖まってから再び途方もなく歩きだしたが、安心して非難できる場所は
無かった。
途中、道端で
公衆電話があちこちにあったが、みな人が並んでいた。
電気も通っていないのに使えるのかと思ったが、どうやら電気が無くとも
アナログ回線で繋がるようであった。
しかし私は所持金が無いため、実家や友人、当時の恋人にも連絡することができない。
仕方が無く、再び先ほどの公民館に戻った。
公民館に着くと
異様なニオイがした。
それは
公衆便所の水が流れないためであった。
とりあえずあまりの寒さに耐え切れず、公民館に入り、玄関の正面にある
僅かにあいていた階段にようやく腰を下ろした。
階段は大理石でできているため凍えそうになったが、もうここしか落ち着くところはない。
寒さと体力にも限界を感じ、大理石の階段でじっと我慢して耐えた。
座ってからどれぐらいたったのだろうか、突然、おばあさんが話しかけてくれ、
” これ、良かったら使って。 それとパンあるけど食べる? ”
と言って私に小銭(恐らく200~300円くらいだったと思う)とパンを差し出してくれた。
まるで神様か天使のように思えた。
有り難くパンを頂き小銭をポケットに入れたものの、少し頭がもうろうとしていたので、
そのときの記憶があまりない。
そしていつの間にかその階段で縮こまって座ったまま寝てしまっていた。
” こっち、こっち! はやく! ”
何やら玄関口が騒がしくなっていた。
どうやら
けが人が順次公民館の中に運ばれているようだ。
” 足折れてる、早く! 足折れてるで! ”
という声が聞こえたが、そのあと、
” そんなんは後や! ”
という声が続いた。
次々と運ばれてくる負傷者を見ていると、どうやら、
心臓や内臓に近い重症の負傷者が
優先のようで、
手足の骨が折れたぐらいのものは後回しにされているようだった。
” ひどいな・・・ 血だらけやのに・・・
だけどこの状況で仕方がないんやな・・・ ”
それらを見ながら、何度も何度も寝ては騒ぎで目覚めを繰り返した。
夜明けまでに最後に見た覚えがあるのが、
重症を負った子供が運ばれてきたことだ。
座ったまま寝ており、夜が明けたころに目覚めると、
階段前に子供たちが大勢円になって
座っていた。
” どうしたんかな? ”
と様子を見ていると、どうやら
最後に見た重傷の子供が亡くなったようで、友達がまわりを
囲んで泣いていた。
” かわいそうやな・・・ あかんかったんか・・・ ”
思わずかわいそうで、もらい泣きしそうになった。
ここにいつまでもいるわけにはいかないと腰を上げると、
なんと
右足が寒さからか麻痺して感覚が無くなっていた。
” まずいな・・・ 歩かれへん・・・ ”
それでもなんとか右足を引きずって公民館の外にでると、
ラジオを持っている方がおり、
何人かの方が聞き入っていた。
その情報では、どうやら近くの臨海沿いにある
大型ガスタンクが破裂するかもしれないから
周囲4~5kmは爆発すると吹っ飛ぶので非難するようにというような内容であった。
” あかん、ここは十分範囲に入っているはずや、
すぐそばにタンク見えてる ”
その情報が知れ渡っていたのか、周りの方々もどうやら移動しはじめているようだった。
とにかく山側に離れなければいけないと思い、山へ向かう方々について足を引きずりながら
北へ北へと向かった。
しかし北へ向かったところで何があるわけでもなく、人すら誰もいなくなったので
結局、公民館の方へ戻った。
途中で
公衆電話を見つけたが、昨日のように誰も並んでいない。
” ん? 誰も電話してへんな? なんでやろ? ”
昨日、公民館で見知らぬ老人に頂いた小銭を持って電話しようとした・・・
が、なんと
小銭が電話機に入らない!?
それは、みんなが電話をし過ぎて、電話機の
小銭収納スペースが無くなって、
それ以上入らずに電話ができなかった。
結局、どの電話も小銭が入らないため
電話はできず。
公民館の近くで再び友人に会うが、直ぐに近くで
” 老人が全壊した建物に埋まっているから
近くの男は手を貸して欲しい! ”
という叫び声が聞こえ、友人とその救助にあたり、何とか
老人を救出した。
今回の地震で殆どの建物は1階が崩れて落ちてしまって2階以上が地面にペタッと
ついている状況であったが、老人は普段、1階で寝ていることが多いために
老人の
負傷者が多くなってしまうのだ。
その後、友人親子になんとか助けてもらおうと思っていたが、
友人親子は富田林の親御さんの実家に自転車で今から向かうとのことで
やむなく別れることになり、
再び独り取り残された。
気が付くと、なんとなく空腹感を覚えた。
お金は少し持っているが、食べ物を売っている店など無い。
こういう事態になると、
お金など何の価値もなくなるのが良く分かった。
あちこち小学校などを回っていると、
自衛隊が食べ物を配給しているという
うわさを聞き、早速行ってみると支給待ちの行列ができていた。
かなり長い時間、並んで待って頂いたのは、
小さなカンパン3つのパックだった。
無いよりは良いが、水分もないので食べたものの
のどの渇きを覚えた。
今度は自衛隊の
給水車が来るというので、並んで待った。
そしてようやく自分の番が来てもらおうとすると、
” 入れ物を渡して下さい ”
と言われた。
” え? そんなもの無い・・・ ”
と言うと、
” 入れ物が無いとあげられません ”
それはそうだが、何とか助けてくれないのかと言ったが、何もしてくれないので
水は諦めた。
困っていると、やはり善意のある方はいるようで、
ジュースを下さった方がいた。
” 本当に有難うございます。 ”
その後、被災地内の小学校などの人が多い避難場所ををあちらこちらと当ても無く
めぐりわたり、いろいろな方に会ったり、いろいろな出来事があったりした。
その2日後に、実家から私を探しにきた
父親と
姉に偶然、
某小学校のグランドで出くわし、なんとか実家に戻ることができた。
その後は実家で数ヶ月間過ごすこととなった。
実家に戻っても度合いは軽かったが、同じ神戸なので被災地は被災地であり、
いろいろな問題やそれにまつわるエピソードがありますが、
震災の話はここで終わりにします。
最後までご覧頂きました皆様、有難うございました。
犠牲者の多くの皆様、ご冥福をお祈りし、
二度とこのような災害が無いよう、切に願います。
あなたにおススメの記事